哲学エヴァンジェリスト高橋聡の読書へのいざない

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こんばんは!
草の根平和推進者 平高橋聡です!

過去の投稿シリーズです。トレルチの本。
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2012年01月26日23:20 mixi


「ルネサンス」と「宗教改革」。
これらはほぼ同時に現れ、双方とも国家から個人の自由を獲得する個人主義を推し進め、
近代精神への道を用意したものである、と考えられている。
ルネサンスと宗教改革は、いわば世俗的ルネサンスと宗教的ルネサンスというわけである。 

 
こういった考え方に「待った!」をかけるのが、トレルチです。
そういういった考え方は妥当に見えるが、実際の中身を見たらかなり違うといわざるを得ないというのです。

 
ニーチェはルネサンスと宗教改革について、反キリストの中でたしか次のように言ってたように思います。
ルネサンスは中世の世界で閉じ込められていた生を、まさに解放し、躍動させる力を持ったすばらしいものである。
対して、宗教改革はそのルネサンスの力を殺し、再びキリスト教的生の抑圧を導いた悪しきものだ。
このように言っていたように思います*1。
こういった見方からすれば、宗教改革とルネサンスは対立するもので、最終的には宗教改革的性格をより純化した啓蒙主義といったものが(ニーチェから見れば嘆くべきことなのかもしれませんが)勝利をおさめたと、ニーチェは考えていたといってもいいと思います。 


さて、そのような先例はあったわけですが、トレルチはどうなのでしょうか。簡単に見ていきましょう。
彼は「ルネサンスの精神」と「宗教改革の精神」というものを考えています。
それは、ヴェーバーのいう理念型(*2)に近いものなのかもしれません。
「ルネサンスの精神」とは、《徹頭徹尾自己に依存する個人主義なのであって万人に共通する自主独立の自我というものを展開することであり、また地上の事物は天上からの投影であって無価値だとするような見方からの解放》と言っていいでしょう。

噛み砕いて言うと、その個人主義は自分だけをみるもので、その自我を芸術や学問などの形で展開し、中世的な世界からの解放にあるのです。
だがしかし、この個人主義は宗教改革の個人主義とは違います。(先取りしちゃいますが)宗教改革の個人主義は、国家から信仰の自由を勝ち取り、その中で宗教生活を実践するのに対して、
あくまでもルネサンスの個人主義は、国家や大商人という既存の権力の庇護のもとで、古代世界の憧憬を仰ぎ見つつ、行われるのに過ぎないのです。
その印として、主にルネサンスは(英国も含めた)カトリック的文化圏で既存権力と迎合する形で広まったのです。 

 
それに対して「宗教改革の精神」とはなんでしょうか。それは、徹底的な《聖書主義》にあります。
そして宗教改革は、《聖書と聖書の言葉とから、教会という救済施設をば、客観的な言葉とサクラメントとにもとづいて建設された可視的な制度として、再建したのです》。
今さっき出た個人主義ですが、その深み、という点ではルネサンスのほうが深いといえるかもしれません。
なぜかというと、ルネサンスの個人主義は中世的呪縛から精神を解放し、新たな思想を次々生み出したといえるからです。
それに対して、宗教改革の個人主義は、あくまでもそれまでのカトリック的集団主義に対して、相対的に個人主義であるにすぎないのです。
ですが、直接的に社会を動かす力は、宗教改革のほうが大きかったといわざるを得ません。
宗教改革は新たな国民教会を作り出し、絶対主義を宗教的に聖別しました。
対して、ルネサンスは社会を直接動かすものではなかったです。
ルネサンスは教養貴族政治とサロンをつくるだけでなく、権力に臣従するからです。
また、宗教改革が起こった地域では、ルネサンス文化が普及したあとはほとんど見られませんでした。 


このようにこの二つは対立したものなのです。
トレルチは、宗教改革がルネサンスと比べてはるかに強力な社会学的力を持っていたので、
宗教改革が勝利したといいます。
ですが、時代が過ぎるにつれて、ルネサンスと宗教改革は啓蒙主義、
あるいは新プロテスタンティズムという形で融合を果たした、といいます。
宗教改革が勝利したとはいえ、ルネサンスの精神は消え去ったわけではなかったのです。
この融合は、いわば両者の妥協の結果であって、それを乗り越えるべきものではなかった、という点に注目する必要があります。
近代ヨーロッパの源泉であるルネサンスと宗教改革の二つは融合されたとはいえ、本来的に異質なものだから、(トレルチが生きた意味での)現代においても根源的対立をなしている、とトレルチは述べています。 

 
私の把握ではだいたいの流れはこういったものだと思います。
たしかに両者の特徴を鑑みるに、そのように言えるように思います。
ですが、現在の日本の教育では、両者の共通点を見るだけで、その中身を見ていないような気がしてなりません。
そのことについてもいずれまた考えられたらいいかな、と思います。次はこの論文の附論「近代のルネサンスの概念の発展」について、書こうかと思っています。 


フーコーは、ルネサンスと宗教改革のどちらの精神性も中世に属するもので、それらの時代は「類似の世界」だったといっています(『言葉と物』)。
ここでは細部に立ち入りませんが、ルネサンスと宗教改革の時代に生きた当人たちの認識が依然中世人のままだった、というのは心に留めておく必要があると思います。
たしか、クリアーノ(*3)もルネサンス人の考えは中世人そのものだったと言っていました(『ルネサンスのエロスと魔術』)。 


ただし、その当人たちが旧世代に属しているといっても、その意図せざる影響が近世、近代を形作ったというのは否定できないでしょう。 


ニーチェやクリアーノは、ルネサンスと宗教改革については、ルネサンスにより評価を高くおいています。
ニーチェの場合は生の地位向上が、クリアーノの場合はグノーシス主義勃興を特に評価しているように思います。ですが、結局ルネサンスは宗教改革の前に敗れ去り、その後の世界の行く先を案じていたります。 


トレルチは、両者は融合を果たしたとはいえ、それぞれの異質性が現代にも受け継がれているといいます。
それが《預言者的・キリスト教的な宗教世界からと古代の精神文化からとに由来する根源的対立》です。キルケゴールも両者のどちらを取るべきか、葛藤に悩んだこともあるようですが、
最終的には宗教改革の精神をより鋭い形で、デンマーク国教会に注入しようとしたのでした。
それで散々叩かれたわけですが、現在では彼の思想が大きく取り上げられるところに歴史の皮肉を感じたりもしますね。 


ちなみに本文に出てくる《》の中の引用は トレルチ『ルネサンスと宗教改革(岩波文庫)』(内田芳明訳)からです。 


*1 ニーチェにとっては、人間が本来持つ生の力を抑える要因は何であれ悪く捉えられたので、このような結論になったのも仕方ないように思えます。ニーチェは倫理というものをすべて否定するわけではありませんが、奴隷道徳というものを特に嫌いました。奴隷道徳とは、簡単にいうと、本来のあり方を価値顛倒させることで、奴隷(弱者)に勝利をもたらす道徳のことです。ここでは深く立ち入ることはしませんが、生を高めるありかたから、生を低めるありかたをする考え方は、キリスト教道徳に見られるので、ルネサンスが高めた生を否定するルターはニーチェからすれば嫌悪すべきものだったわけでしょう。 


*2 理念型とは、ヴェーバーの用語で、「現実には存在しないかもしれないが、理論的枠組みにおいて、当該社会の論理的な典型」です。簡単にいえば、他の社会と比較した際にその社会に現れる特徴の集合体です。 

 
*3 ルーマニア生まれの宗教学者。最後は暗殺される。

ルネサンスと宗教改革 (岩波文庫)
エルンスト トレルチ
岩波書店
1959-01

 

こんばんは!
草の根平和推進者 平高橋聡です。
過去の投稿シリーズです。

2011年04月14日14:35 mixi
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●道徳は不可避的に宗教にいたる 
 
「批判の時代」―宗教も批判の例外ではない 
 
そのため『単なる理性の限界内における宗教』(=『宗教論』)をあらわす。
仮象を批判し、真理をつきとめる、三批判書と同じ態度がとられている。

 
「道徳は不可避的に宗教にいたる」は、道徳が将来的に宗教に通じるという意味であって、
今現在の道徳が宗教を必要としているという意味ではない。
それゆえ道徳が道徳として自律しているという主張と、
それが宗教へ通じるという主張はなんら衝突するものではない。

 
しかし逆は不可能である。宗教は必ず道徳を通る必要があるのだ。
言い換えると、道徳がない宗教は偽りの宗教であり、仮象宗教だというわけである。
その意味で、カントの宗教論においても、仮象批判としての批判哲学の精神が貫かれている。

 
幸福の追求は間接的な義務であり、幸福は願わしきものとして広義における「善」にほかならない。
完全な善は徳と幸福の両方で構成されなければならない。
このような徳と幸福の一致を「最高善」と呼ぶ。
実践理性は依然としてとくが最高善の第一条件であり、
幸福はあくまでもその第二条件にすぎないことを教える。 

 
道徳的に完全無欠な人間となるのはこの世では不可能である。
しかし、理性が実現不可能な命令を下すことは自己矛盾である。
理性の自己矛盾はすでに『純粋理性批判』において排除されている。

とすると、その実現は、この世を越えて無限の前進においてのみ可能でなければならない。
このことから、必然的に理性は道徳的主体としての人格、すなわち魂の不死を要請する。

 
幸福とは、世界のために自分があるのではなく、自分のために世界があることである。
しかしわれわれは世界の創造者でないので、そんなことは不可能である。
それでも依然として理性はわれわれに最高善の促進を命ずる。

ゆえに、理性が自己矛盾に陥らないためには、最高善は可能でなければならない。
そのことから理性はみずから、世界の創造者にして、同時に徳と幸福の結合の根拠を含む存在者、
すなわち神の存在を要請する。
このように、最高善の概念を介して、道徳は必然的に宗教にいたる。 

 
このような信仰は、今までの信仰とは違う。
カントはこれを「純粋実践理性信仰」と呼んだ。
理性宗教という新しい宗教をみずから提唱し、それを基礎付けたといえる。 


●根源悪 
 
『宗教論』において、カントは人間における悪を起点にすえる。 


人間には「善への素質」が宿っている。
一方で「悪への性癖」が根付いている。
「悪への性癖」とは、道徳法則を感知しながら、なおもそれにそむいて悪しき格律を選択する性癖を意味する。
「悪への性癖」は、諸悪の根源にしてそれ自体悪である。これをカントは「根源悪」と呼んだ。 

 
「悪への性癖」は「英知的所行」とされ、自然的素質ではない。
というのは、「悪への性癖」が悪しき格律を選択する意志に、すなわち自由にもとづいているからである。
それは根絶不可能である。 


だが、「悪への性癖」は克服が可能である。
「唯一不動の決意」による「思考法の革命」により、善への道へ方向転換することによって。 

 
この根源悪はキリスト教の原罪の批判でもある。 


●理性宗教の具体相 

啓示宗教のひとつであるキリスト教の本質のみが、理性宗教の資格を備えているという。
神の子の概念は、われわれの理性の内に求められなければならない。

倫理的共同体は道徳的に最高の立法者でなければならない。
このような存在者として表象されるのが神に他ならない。
宗教は道徳法則を神の命令と見なすことである。
神を立法者とする共同体を教会と呼ぶ。
しかし、この教会は見えざる教会であり、内なる教会である。



カント入門 (ちくま新書)
石川 文康
筑摩書房
1995-05

 

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カントから学ぶことは今でも多いので、 皆さんもカント入門、手に取ってみてください。

こんばんは!
草の根平和推進者 平高橋聡です。
過去の投稿シリーズです。

2011年04月14日10:36 mixi
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『純粋理性批判』によって自然必然の法則性が確立され、
『実践理性批判』によって自由にもとづく法則性が樹立された。
これらは互いに排除しあう異なる原理である。
この二つの対立する原理をつなぐ第三項を導きだしたのが、第三批判と呼ばれる『判断力批判』である。
『判断力批判』は新しい思考法の発見でもある。 


●合目的性 

目的因…目的がすべてに先行する、第一原因であるという考え方。
例えば家は設計図、建材、実際の作業が不可欠な契機であるが、
「住む」という第一原因がないといまあげたどの契機も発動されない、と考える。
 
カントはこの考え方に批判を加えつつ、合目的性という概念を掲示する。
自然界に見られる有機体の仕組みは、たしかに目的という観点抜きには説明できないほど、
生命の維持という目的に適っている。
それを説明するのが、合目的性である。これは「目的に適っている」という意味を出ず、
目的を究極原因として捉えることを意味しない。 

カントが自分の体系完成を託した原理が合目的性の原理である。 

 心的能力  上級認識能力  原理   適用範囲 

 認識能力   悟性     合法則性  自然 
 感情の能力  判断力   合目的性  技(技術、芸術) 
 行為能力   理性     究極目的  自由 


上のように対応する。

感情の能力とは快・不快の能力であり、これに対応する上級認識能力が悟性と理性の中間にある、判断力に他ならない。 
 
同様に、原理も合法則性と究極目的を媒介する原理でなくてはならない。
それは「自然の合目的性」である。
合目的とは、ドイツ語では「便利」「好都合」を意味する。
そして、この合目的性の概念によって、判断力は快・不快を司る能力となる。

なぜなら、目的の実現や目的に適った現象には、大なり小なり快の感情が伴うからである。
このことから、『判断力批判』は、
快・不快の感情に直接関係する趣味判断を扱う部分(「美学的判断力の批判」)と、
自然の合目的性そのものをテーマとする部分(「目的論的判断力の批判」)の二部構成をとる。 
 

判断力とは、悟性に使える判断力ではなくて、自律的判断力である。
それをカントは「反省的判断力」と呼ぶ。
判断力とは、特殊なものを普遍的なものの下に包摂する能力である。 

 
特殊なものがまず与えられて普遍的なものを求めるのが反省的判断力である。
普遍的なものとは、「合目的性」にほかならない。 
 
 
「反省」とは、直接に対象に向かうのではなく、基本的に、
与えられた印象をさまざまな認識能力に関係させつつ、
対象に関する概念を得ようとする心的状態を意味する
それゆえ、反省的判断力のはたらきは、同じ対象に「~と見なす」という仕方で望み、
「判定能力」とも呼ばれる。 


●目的なき合目的性―美 
 
新たに得られた構想を展開するにあたり、カントは趣味判断の批判から開始する。
なぜなら、判断力に対応する心的能力が快・不快の感情であり、
この感情が直接問題となるのは、趣味の領域においてだから。 

 
美学的判断力の批判で問題になっているのは、自然美である。 

 
美は構想力の自由な戯れであるが、悟性との調和における戯れである。
なにかが美と判定されるとき、そこには同時に調和の感覚がなければならない。 
 
ある対象が美と判定されたとき、そこには「快」の感情が生じている。
美が感得されるときには、目的や目的設定する意志がはたらいていないのに、
意に適うという「合目的性」が見られる。
それゆえカントはこのような合目的性を「目的なき合目的性」と呼ぶ。 

 
趣味判断はア・プリオリであり普遍的である。
「主観的・普遍妥当性」を持つ。
この種の判断力において、はたらく認識能力、構想力と悟性は、万人において一様であり、そうでなければならない。
人が「このバラは美しい」と判断するとき、
彼は少なくともその意味があらゆる他者と共有できるという期待のもとに、その判断を下しているのである。 

 
このことからカントは、人間における「共通感覚」の存在を主張する。
人間に共通な理解力のことである。
カントの主張の眼目は、先入観から解放される唯一の方法として、
自分自身を他者において、相互主観的に考えることを説くことである。
相手の立場にたつということは、自我の狭さを打破するのであるから、
必然的に、自我を拡大することにほかならない。そしてカントは健全な思考法のための三つの原則を掲げる。 


1 自分自身で考えること 
2 自分自身を他者の立場に置いて考えること 
3 つねに自分自身と一致して考えること 

1が悟性に対するもの、3が理性に対するもの、2が判断力に対するものである。 


カントにとって美と崇高は、いわば性格を異にする兄弟である。
崇高は理性と調和した構想力の営みである。崇高の感情は間接的快、すなわち感動である。
崇高には二種類存在する。 

 
1)数学的崇高…判断力が構想力を認識能力として理性に関係させる場合の崇高 
2)力学的崇高…判断力が構想力を欲求能力としての理性に関係させる場合 


すでに美学的判断力の分析を通じて、合目的性の原理が構想力から悟性へ、
悟性から理性へと「思考法の移行」を可能にし、
それが自然界と英知界を媒介する原理であることが示されている。  


●自然の合目的性 

 自然界にはだれが意図したわけでもないのに、合目的な現象が存在する。
生物がそうである。有機体は全体の理念があって、部分が全体のために、全体が部分のためにある合目的な統一体である。
このような仕組みを体系と呼ぶ。これは技術と化した自然、「自然の妙技」と呼ばねばならない。
自然の合目的性は「客観的合目的性」とも呼ばれる。 

 
ただし、自然の合目的性は単なる主観的原理、「統制的原理」である。
われわれの認識をコントロールする原理であり、
それは現実ではなく、現実に投影された理念にすぎないのである。
このことから客観的合目的性といえど、主観的反省作用が、
目的という概念を客観に持ち込んだ結果にすぎないのである。

合目的性を客観的に認めても、そこに目的設定した意志が「ある」のではなく、
「あたかもあるかのように見える」とするところに、反省的判断力の本領がある。
仮象は判断の主観的根拠を客観的根拠と混同するところに生じたが、
反省的判断力の原理である合目的性は、あくまでも判断力自身の主観的原理である。
主観的なものを主観的なものとして断定することで、
仮象に陥ることを避け、仮象自体を批判する。
前二批判書と同様、「判断力批判」は一貫した仮象批判である。 


目的論的考察をすすめると、究極目的の概念に至る。


人間は自己および他者を人格として、目的そのものとしてみなす存在者である。
言い換えれば、人間を自由の主体とみなすということである。
自由は、その背後にいかなる条件を前提としない絶対的自発性を意味していた。
自由な主体としての人間、道徳的主体としての人間こそが世界の究極目的である。
英知的存在者であるかぎりにおける人間が世界の究極目的である。



カント入門 (ちくま新書)
石川 文康
筑摩書房
1995-05

 

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草の根平和推進者 平高橋聡です。
過去の投稿シリーズです。

2011年04月13日13:24 mixi
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●道徳法則への尊敬の念 

人間は何の動機もなしに行為へ赴くということはない。
人をして真の道徳的行為へ赴かしめる動機とは何か? 
それは「道徳法則への尊敬の念」である。 


何故道徳法則は命法(命令文)なのか? 
 
「べし」の意識は何らかの抵抗あっての「べし」。
その抵抗とは、人間の感性的存在様式にもとづくもの、欲望などである。
「べし」は理性が感性に越境する仕方で、感性に影響を与えることによって生じる意識である。
道徳法則は、理性から感性の方向において命法となる。 


命法としての法則を感性の側からみたら、なにが生じるだろうか。なんらかの感情である。
それこそが「道徳法則への尊敬の念」に他ならない。
無条件な命令は無条件な服従を迫る。そこには必然的にその命令に対する尊敬の念が見られる。
尊敬の念とは「自愛の念を挫く感情」だからである。 

 
また、道徳法則への尊敬の念が基盤となって、道徳法則を具現化した人物を前にして、
その人物に同じ尊敬の念を覚える。 

 
ルソー告白の際に手に入れた「人間への尊敬の念」が、「道徳法則への尊敬の念」へと成長していった。 


●定言命法の定式 
 
カント倫理学は形式的倫理学―普遍妥当的な純然たる法則の樹立を目指すもの 


行為の主観的原理を格律という。道徳法則は、法則であるがゆえに、格律を客観化するものでなければならない。 

 
そのためにカントは、道徳法則を唯一の表現に定式化する。 


「汝の意志の格律がつねに同時に普遍的立法の原理となるように行為せよ」 
つまり、ある格律を万人に当てはめてみて矛盾が生じないかどうかを考え、
矛盾が生じないような格律にしたがって行為せよ、ということ。 
 
 
定言命法もア・プリオリな総合判断である。
そして、定言命法は命題自体としては、明らかに証明不可能な命題である。 
 

●「天におのれを懸けるものもなく、地におのれを支えるものもない」 
 
しかし同時に「それにもかかわらず、哲学は確固たる地位を確保しなければならない」。 

 
命法の命ずること以外に動機を求めるのは、結局は意志の他律を意味する。
しかし一切の動機は経験的で仮象道徳をもたらすのみだったから、
意志の他律はにせの道徳の根源にすぎない。

逆に、真の道徳が可能だとすれば、それは意志の自律によるのである。
自律とは自由の別名である。 

 
定言命法は、自由の理念がわれわれを英知界の成員にすることによって可能となる。
その意味で、道徳法則と自由は互いに不可分の関係にある。 
 

「自由は道徳法則の存在根拠であり、道徳法則は自由の認識根拠である」 

 
・幸福について 
われわれにでき、また為すべき唯一のことは、幸福になることではなく、
ただ道徳性の研鑽によって幸福に値する人間になることである。

 
幸福は希望に属する問題であり、宗教に託される以外にないものである。 


カントが道徳性に託したのは、結局は良心の支配であった。 


良心の法廷モデル―不合理を回避するには、訴える我と訴えられる我を互いに別人格とし、
人間の存在様式を二様に考察しなければならない。 
 
英知人=訴える我(原告)=裁判官の我/感性人=訴えられる我(被告) 
 
原告の訴え、および裁判官の判決こそが道徳法則にほかならない。


カント入門 (ちくま新書)
石川 文康
筑摩書房
1995-05

 

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2011年04月13日11:13 mixi
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●自由の保証 
 
第三アンチノミーの考察と解決 
 
―理論哲学から実践哲学・倫理学へ移行する基盤を得ることになる 
 
なぜなら、第三アンチノミーは自由と自然必然をめぐるものであったが、
カントにおいては自由こそ道徳の基盤をなすものだから。
 

第三アンチノミー 
 
テーゼ:自然法則による因果性だけでなく、自由による因果性もある。 
アンチテーゼ:自由は存在せず、すべてが自然法則によって起こる。 

自由―物事の第一にして絶対的始め かつ 自律 を意味 
 
ところが現象世界においては、因果の鎖ははてしなく続き、どこまでいっても絶対的始めにたどり着かない 

どちらの命題も真。それぞれの主張の妥当範囲を制限したうえではじめて解決可能になる。 

人間は感性的存在者として、空間・時間の制約のもとに現象界に属している。
一方、人間は理性的存在でもあり、空間・時間から解放されており、その意味で物自体の世界に属している。 

―超越論的観念論 

人間は英知界と感性界の両方にまたがって存在している。 


人間は感性界に属する存在者としては、完全に自然因果の支配化にある。
対して英知界に属する存在者から感性人に向かって影響する力こそ、第一の始めであり自由である。
自由は感性人における出来事の究極原因となってはたらくことを「自由による因果性」と呼ぶ。 

 
第一アンチノミー同様、第三アンチノミーにおいても、時空の支配下にある感性的存在様式と、
その支配を免れた英知的存在様式によって、人間の存在様式は完全化された。 


 英知界=自由/感性界=自然因果 


 第三アンチノミーも仮象矛盾である。 

●仮象道徳と真の道徳 
 
カントの道徳は、善意志という概念から出発する。
善意志とは、善の物自体のことである。
道徳において徳を仮象の徳ではなく真の徳ならしめるのは善の物自体である。
通常物自体は認識不可能であるが、善の物自体は体現可能である。 

 
カントの倫理学の出発点、善意志は厳格である。というのは、善意志は義務という概念に凝縮されるから。
一切の利害を離れて逆境にあってもなお、善を実現するためには義務感が前提にされ、
これをもって臨む以外ない。 

 
建物の価値は、例えば立地の利便性や使い勝手の良さ、外見などで決められることが多い。
しかし、建物の真価は、危機に臨んだときに認められる。
すなわち、大地震や台風などのときである。
危機に耐えうるには、基礎設計がしっかりしていなければならない。 


上の建物の例えで示したことは、道徳にも同じようにいえる。
真の道徳の基礎付けをカントは行おうとするのである。
仮象道徳(手抜き工事の上に成り立つ道徳)ではなく、真の道徳を。
そういう意味でもやはりカントの倫理学は厳格である。 

 
義務は命令文の形であらわされる。
道徳における命令文の方式をカントは命法と呼んだ。
命法には二つの種類があり、条件付き命法(仮言命法)と無条件命法(定言命法)がそれである。 

 
仮言命法は、条件句がなくなれば命法の内容も無意味になるという問題を孕む。
それは、カントの用語でいえば、普遍妥当性をもたず、法則としての資格はない。

第二に仮言命法にあっては、命令そのものより条件が主眼にあって、それが行為の動機になっているという問題がある。
「もし人に信用されたければ、嘘をつくなかれ」という仮言命法は、嘘をつかないことが最終目的ではなく、
自分が信用されたいということが最終目的であり、
かつそれが嘘をつかないという行為を促す隠れた動機になっている。
こういうものはエゴイズムの原理以外なにものでもない。 

 
これに対して、定言命法は端的に「嘘をつくべきではない」という命法などである。
カントによれば、これのみが真の道徳法則である。先ほど上げた2つの問題点から解放されている。
カント自身、仮言命法をはっきりと「道徳性のにせの原理」と呼んでいる。 

 
例えば教師が生徒に徳を教える際に、「他人に親切にしましょう」と言うだけでなく、
一連の教育的効果をねらって、「自分が他人に親切にしてもらいたかったら」という動機付けをおこなうとする。
他人に親切にすることで、「他人から親切にされる」ということをほめられたとする。
すると、他人に親切を施すことで自分の幸せが訪れたと考えるようになる。
いわば、見返りを求めて親切という行為をなすようになってしまうのである。
そうなれば、見返りが得られないときに親切を行う必要がない、という考えを根付かせ、
促進することにもなりうるのである。 


カントはこういったことから、仮言命法で作られた道徳を否定する。
動機による道徳教育はまれにしか効果を見ない。
またそれが悪へ繋がり、あるいは打算的な人間を生み出したり、エゴイズムに落着する。
これが動機付けの倫理にひそむパラドックスである。 
 
対して、動機を一切考慮しないような道徳行為は、即効性こそないもののそれだけかえって末永く人の心に残る。


カント入門 (ちくま新書)
石川 文康
筑摩書房
1995-05

 

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2011年04月12日17:50 mixi
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ア・プリオリな総合的原則 

カテゴリーが経験界に適応されるための4つの原則 
 
1 数学を経験界に適用する原則―「直観の公理」 
 
どんな直観も外延量、広がりをもっている。そうしてはじめて数学が経験に適用されうる。

 
2 経験の中のア・プリオリ/連続性の原則―知覚の「先取的認識」 
 
「すべての現象において、感覚の対象である実在的なもの内包量、すなわち度合いを有する」 
 

超越論的論理学を際立たせる原則として特筆される。
経験的にしか与えられていないものの中に、経験に先だつものを認識することを教えている原則だから。
内包量や度というものは、無限の度のことを意味する 
 

3 二項関係の原則―「経験の類推」 
 
「経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である」 
 
類推とは、質的比例関係のことを意味。この場合、異質なもの同士の等しい関係をあらわす。 

4 認識の様相を判定する原則―「経験思惟一般の要請」 

様相のカテゴリーに対応し、このカテゴリーの三つの契機にしたがって三連立の形をとる。 

「経験一般を可能にする条件は、同時に経験の対象を可能にする条件である」


カント入門 (ちくま新書)
石川 文康
筑摩書房
1995-05

 

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草の根平和推進者 平高橋聡です。
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2011年04月12日16:03 mixi
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1.ア・プリオリな総合判断 
 
あらゆる認識は判断の形をとる。判断は主語と述語で構成され、その際判断は二種類に分類される。 


 分析判断…すでに主語概念に含まれている概念を述語としてもつ判断 
 総合判断…もともと主語概念には含まれない述語を、主語概念と結びつける判断 


分析判断は原理的にすべてア・プリオリで、開明判断と呼ばれる。

 
総合判断は、新たな認識内容を付与する。そのため拡張判断とも呼ばれる。
ほとんどの総合判断はア・ポステリオリである。 

ではア・プリオリな総合判断はあるのか?
 
ある。空間と時間はア・プリオリな直観として与えられているから。 
たとえば「直線は二点間の最短距離である」という命題は、ア・プリオリな総合判断である。(ショーペンハウアーの存在の根拠) 

 
ア・プリオリな総合判断は、主語の分析によって述語が導出される命題でないから、
基本的に証明不可能である。 
ア・プリオリな総合判断は、若きカントを悩ませた証明不可能な根本真理の成長形態にほかならない。 

2.純粋悟性概念―カテゴリー 

カントによれば、人間の悟性(知性)もそれ固有の枠組みをもっていなければならない。
それをカントは純粋悟性概念、あるいはカテゴリーと呼ぶ。空間・時間という窓口を通して与えられた素材が、
カテゴリーによって処理されてはじめて、一定の意味ある認識が成立するのである。
因果性もそのカテゴリーの代表例である。 

 
「判断表」…定義不可能な根本概念の一表。十二のカテゴリーが発見された。
悟性は現象や対象の差異に応じて、そのつど十二のカテゴリーのいずれかを組み合わせて、それらを把握する。 

 
カントのア・プリオリとは、「根源的に獲得的」という意味である。
それは、一切の先なる所有者を、また先なる根源を前提しない概念である。
神からも経験からも派生しない概念であり、
それは悟性がその自己活動によって悟性自身から獲得したという意味である。

 
カントが根本真理やカテゴリーに対して行った証明とは、広義の弁明(論証)にほかならない。
一連の論証を遂行するにあたり、カントが樹立したのは自己意識の原理、すなわち「統覚」という不動の自我である。
刻一刻と時間は流れ、それぞれ異なった意識を持とうと、その違いを認識できる自我があるはずである。
そういった自我をカントは「根源的統覚」「超越論的統覚」と呼ぶ。同一性の根拠は「考える」という働きに求めなければならない。
悟性は概念をもちいる能力であり、概念を用いることが思惟、「考える」ことである。

そこからカントは統覚の総合的統一を、人間の認識の最高原理あるいは悟性使用の最高原理とする。 


カテゴリーなしには、いかなる認識といかなる経験も成り立たない。

カント入門 (ちくま新書)
石川 文康
筑摩書房
1995-05

 

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