哲学エヴァンジェリスト高橋聡の読書へのいざない

このブログでは、私が読んだ本のどういう点があなたに役立つかを明らかにします。 コメントは、気軽にいただければ幸いです。あなたのコメントは、私の糧になります。私のコメントはあなたの糧になります。 哲学エヴァンジェリスト 高橋聡

2016年09月

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キルケゴールの哲学的断片と単独者という概念

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あなたはデンマークの哲学者キルケゴールについてご存じでしょうか。

キルケゴールが書いた哲学書『哲学的断片』と単独者という概念について

ちょっくら考えてみましょう。

 

キルケゴールの『哲学的断片』という著作があります。

この哲学的断片は、キルケゴールの哲学的エッセンスが詰まったものです。

同時に、キルケゴールの信仰概念ともかかわってくる大事な著作です。

この著作の大事な部分をかいつまんでお話ししましょう。

 

 

ソクラテスの立場では、学ぶものは真理を潜在的に持っていると仮定します。

それゆえ、人間ソクラテスが助産術にて真理を引き出せるというのです。

ここでいうソクラテスというのは、のちの西洋哲学の立場全体をさしています。 

特に人間は歴史が進むにつれ、絶対者に近づくというヘーゲル流の哲学の立場に相通じます。

 

 

これを日本の思想を鑑みて考えてみると、次のようにいえます。

日本の仏教は、そのほとんどすべてが大乗仏教の経典をもとに展開されています。

日本の大乗仏教を大きく分けると、聖道門と浄土門があります。

自力で仏となる道を模索するのが聖道門です。

対して、自力で仏になれない人が阿弥陀仏の力にすがって、他力で仏となる道が浄土門です。

 

ソクラテスの立場とは、日本に置き換えてみると聖道門の立場です。

自分の力ですべてに気づき、すべてを改善する余地があると想定しているからです。

では浄土門の立場は西洋でいうところのなんでしょうか。

それはキリスト教の立場のことをいいます。

 

 

キルケゴールはキリスト教の立場とは、学ぶ者が非真理であるといいます。

そして非真理のゆえに、非真理を自覚したうえで神(=教師)に委ねるということが必要だといいます。

教師である神が絶対的な真理を持ち、それ以外の存在は真理を持たないのだから、必然的にそうなります。

 

 

そして信仰とは「信じる情熱」のことであり、理性的営みとは真っ向から反対するものだとも言います。

逆説への情熱、これこそが信仰の本性だとキルケゴールは断言します。

キルケゴールがいう逆説とは不合理に他なりません。神が人として地に生まれて教師として活動したその逆説のことを指すのです。

 

 

キルケゴールがいうことを想定すると人は徹底的に孤立した存在であることがわかります。

自分の中には真理がないということは、他人に真理もないということです。

人に真理がないということは、他人に寄りかかりすぎても真理というものを見つけられないのが明白。

神に頼るしかないのです。

でも、そこで他者に頼らずに自己を徹底的に見続ける視線が必要となります。

そうして自己と対峙し続けた人こそが、キルケゴールのいう単独者として生きることになるのです。

 

 

このことは、日本の浄土門の考えともかなり似た推移をとります。

親鸞聖人が弥陀の本願は、親鸞一人のためにある、と言ったことは、単独者の考えと似通っていると思います。

この世の煩悩に迷える凡夫として自己を自覚した親鸞聖人は、きわめてキルケゴールと考えが近いと思います。

 

 

こうした単独者の考えは現代の私たちにどんなメッセージ性を読み取ることができるでしょうか。

 

第一にどのようなつながりであれ、人対人で徹底的に頼れるものは何もないということに気づかされます。

現代人にとって、人のいうことがすべて非真理だと想定することは難しいですが、

しかし、すべてのことに関して真理をいう人を想定することもまた難しいでしょう。

だから、あらゆる人から独立して自由に意思決定ができる人になる必要があります。

 

第二に自分の信じるモノがなんであれ、理性的な判断だけでは情熱に打ち勝てないということが言えます。

もちろん、その情熱が狂信であれば恐ろしいものですが、そうなればなお理性的説明だけで納得させるのは難しいのが事実です。

だから、私は自分がたとえ理解できないものでも、情熱をもって信じているモノがある人に対して、

その人を馬鹿にしたりすることはしません。

 

第三に自己との対峙、自分自身についての点検が必要だということです。

人はそのときの状況によって、言いたいことの重点が変わることも多々あります。

常に自己と対峙して、どのような行動をすべきかを考えること、これを私はとても大事にしたいです。

 

以上、読んでいただきありがとうございました。

草の根平和推進者 平高橋聡


 

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仏教の無分別智という考え方と森と木のたとえ
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仏教では、「無分別智」という考え方があります。
これは仏教の基礎中の基礎なのですが、おもしろい考え方なので
紹介したいと思います。
 
 
われわれは通常ものごとを理解しようとするとき、
そのことを分析してどういう状態になっているかを把握します。
そして把握した情報をもとに体系化しようとします。
これを「分別智」といいます。
 
 
仏教では、この考えより一段高いところにある智があります。
それが「無分別智」です。
無分別智とはものごとを分別だけではなく、
直観で把握して判断することを言います。

 
 
ものごとを分別して得た知識は、どうしても部分的真理となってしまいます。
この部分的真理を全体的真理と勘違いして、取り違える人がいます。
そういった部分的真理だけでものごとをみることを否定するのが
無分別智です。
 
 
といっても、大事なのは分別智を駆使してはならないわけではないわけです。
分別智にとらわれすぎて、全体的真理が曇って見えなくなる状態こそ、
「執着」であり「煩悩」だと仏教では考えます。
 
仏教では執着や煩悩こそ避けるべきものだといわれています。
注意すべきなのは、仏教は欲望そのものを否定しているわけではないことです。
そうではなく、執着や煩悩にとらわれすぎて、
自由なものの見方や行動ができない状態(「我執」という)を
さけようとする努力・修行が必要だと仏教の開祖、釈迦牟尼如来(シャカ)は説くのです。
 
 
だから、分別智そのものをすべて否定するわけではないけれども、
無分別智を働かせずにものごとを見ると、
一面の真理しかつかんでいないんだよ、ということです。
 
 
たとえば、木と森のたとえを用いてみると、こういうことです。
まず森があり、そこのそれぞれの木があります。
ある一本の木が切り倒されようとしています。
 
 
単純にこの状況だけ見ると、
木を切り倒すのがよくないと思ってしまう人もいるかもしれません。
でも、その木が病気で他の木に広がるのを防ぐために切り倒しているのならどうでしょう。
 
 
もちろん、その木は切り倒すべきものだとだいたいの人はいうでしょう。
森のことを考えると、木を切り倒すのも仕方ないと考えつくからです。
この場合、もちろん分別智も介在して判断がなされます。
 
 
つまり、木についての知識、木についての病気の知識などは分別智そのものです。
大事なのは、無分別智というのは、分別そのものを否定するわけではなく、
むしろ逆で分別も踏まえた結果、全体を見て判断することを指します。
この森と木のたとえでいうと、森だけを見るわけでも、木だけを見るわけでもありません。
森も木も見て、最後に判断することこそ無分別智です。
 
 
ただ注意しないといけないのが、
科学ではそれぞれの木を生かすために一つの木を切り倒したと考えます。
仏教的には、一つの木それぞれが完全に分かれているわけではなく、
判断をする私も含め、全体は不二のもので、一なるものだと考えるのです。
 
 
「天上天下唯我独尊」という言葉があります。
本来、天の上から天の下にあるすべてのただ一つのものは、
すべて尊いということです。
つまり、本来は存在そのものがすべて尊いということです。
 
 
この尊い本来の私(および私と一体であるはずのすべてのもの)が様々な我執から逃れ、
平静を取り戻すために行うもの。
それが「禅定」です。仏教で行われる瞑想の一種です。
 
 
ぼくは、仏教にしろ、他の宗教にしろ、いろんな宗教を学ぶ際に、
科学的な根拠がない迷信だという立場から見た考えと、
当の信仰を守っている人たちの意見はまったく違うと感じました。
 
 
何らかの感じるものがあってこそ宗教的なものごとは
組み立てられているため、これを即迷信と判断することほど、
危険なことはないし、視野がせまいことはないでしょう。
 
 
また、何か面白い用語があれば紹介したいと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
 
草の根平和推進者 平高橋聡


 

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―倫理を自覚せよ!―

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あなたは倫理について考えたことがありますか。

倫理といっても、イメージは哲学者の名前が出てくる科目名かもしれません。

だが、倫理とは人間的な生き方の最たるものだとカントやヘーゲルは言いきます。

 

 

では、どういうものなのかヘーゲルのメッセージを見てみましょう。

 

 

 

ヘーゲル『法の哲学』

//

倫理とは、現存世界となるとともに、

自己意識の本性となった、自由の概念である。

//世界の名著版

 

 

ちょっと難しいですが、次のような意味です。

この文は二つに分解できます。

倫理とは、現存世界となる自由の概念である。-A

同様に倫理とは、自己意識の本性となった自由の概念である。-B

 

 

Aから考えてみましょう。

現存世界とは何かというと、今我々が生きている現実世界のことです。

ヘーゲルが概念というときは、絶対者の持つ客観的な構造を意味します。

となると、自由の概念が、倫理を通して現実世界になるのです。

 

 

そしてBについて考えてみましょう。

ヘーゲルのいう自己意識は、主人と奴隷の弁証法にて労働が媒介として働くことが重要です。

自由の概念が、倫理をとおして自己意識の本性となる。

ここで自己意識の本性とは、主人と奴隷の弁証法では、労働して向上しようとする自己自身です。

 

 

ABを合体させると、自由の概念が、倫理を通し現実世界となり、

倫理を通し労働して向上しようとする自己自身となると言えます。

 

もちろん、これは一面的な解釈です。

 

実際のところ、主人と奴隷の関係がない社会なら、

労働を通さないで自己自身であると気付くきっかけがあるかもしれないからです。

 

 

しかし現実の多くの組織では、主人と奴隷の関係にあるため、

ここではそう言ってしまってもいいかもしれません。

 

 

ところで概念とは、絶対者の客観的な構造だと言いました。

となると、自由の客観的な構造とは、倫理そのものと密接な関係があります。

 

 

つまり倫理とは、現実世界となり、自己意識の本性となった

自由の客観的な構造だとヘーゲルは言っているので、

ヘーゲルは自由の要素として、倫理を大事にしています。

 

 

そしてヘーゲルにおいて、自由は自覚のことであり、

倫理の自覚こそが、自由の最も重要な要素だと言っているのです。

 

 

 

これがメッセージです。

あなたも倫理について再考してみましょう。

倫理とは現実の偏見や誤謬を抜き取った、

生きていくべき道のことなのです。

それを見つけることができれば、

あなたは必ず自由を感じることができます。

 

草の根平和推進者 平高橋聡

法の哲学〈1〉 (中公クラシックス)
ヘーゲル
中央公論新社
2001-11

 

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戦争の敗北は不幸ではない
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戦争に負けることは
長期的に見て、不幸を決めるファクターとはなりえません。
もちろん戦争に負けた直後は
国土が破壊され、人心はすさんでいます。
 
 
でもそのあとの再生劇などを考えれば、
負けた国が不幸だとは言えません。
 
 
内村鑑三『デンマルク国の話』
//
今、ここにお話しいたしましたデンマークの話は、
私どもに何を教えますか。
 
第一に戦敗かならずしも不幸にあらざることを教えます。
国は戦争に負けても亡びません。
 
実に戦争に勝って亡びた国は
歴史上けっしてすくなくないのであります。
 
国の興亡は戦争の勝敗によりません、
その民の平素の修養によります。
善き宗教、善き道徳、善き精神ありて
国は戦争に負けても衰えません。
 
否、その正反対が事実であります。
牢固たる精神ありて戦敗はかえって
善き刺激となりて不幸の民を興します。
デンマークは実にその善き実例であります。
// 岩波文庫
 
 
戦争に負けるといっても、それは不幸なわけではありません。
国は戦争に負けても滅びません。
 
 
逆に戦争に勝って亡びた国のほうが多いのです。
戦争に常勝といった国でも、別のきっかけで滅ぶ国は歴史上たくさんあります。
 
 
戦争に勝つか負けるかは、長期的な国の興亡とは関係がない。
国民の平素の修養、その宗教・精神・道徳といったものに
関係しているのです。
 
 
戦争に負けることは、良い刺激となって、
その不幸なる国民に対して幸運の道を興します。
 
 
この戦争の勝敗は、いろんなサイズの組織にも言えます。
あるいは、個人にも言えます。 
 
人は成功から学ぶより、失敗から学ぶことのほうが多いのです。
だから、失敗を恐れず戦うこともときには必要です。
 
 
暴力を押し通して勝った国や人がいても、
繁栄の確約はされていないのは当たり前です。
暴力による圧制で長期間繁栄した国家は歴史上存在しないからです。
 
 
以上、内村先生からのあなたへのメッセージでした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


 

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天が敵にまわろうとも、弄するな
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あなたは天災など、
自然の力の前で自分のみじめさということを
感じたことはありますか。
 
 
そんなどうしようもないときの対処法を
菜根譚は教えてくれます。
 
 
さっそく、メッセージを見てみましょう。
 
『菜根譚』九〇
//
天が我にわが福を薄くするなら、
我はわが徳を厚くして対抗しよう。
 
 
天が我にわが肉体を苦しめようと仕向けるなら、
我はわが精神を楽にして補うようにしよう。
 
 
天が我にわが境遇をいきづまらせるようにしむけるなら、
我はわが道をつらぬき通すことにしよう。
 
 
かくすれば、天といえども、
我をどうすることもできないであろう。
// 岩波文庫 今井宇三郎訳

たとえ天災などが起こって福がないように思っても、
徳を磨いて対抗しましょう。
 
 
あなたの徳というのは、自分で磨くものなのです。
その層を厚くすることで、必ず福が薄くなっても対抗できます。
 
 
天があなたの肉体を苦しませにきていると感じても、
精神を落ち着かせましょう。
 
 
精神を落ち着かせて、楽にすることで、
肉体の苦しみにばかり気を向けないのが大事です。
 
 
天が境遇をみじめなものにしても、
あなたは自分の道をつらぬくことで、
遣り通すことができます。
 
 
そうすれば、天が私たちを貶めることはできなくなります。
 
以上が、菜根譚からあなたへのメッセージです。

菜根譚 (岩波文庫)
洪自誠
岩波書店
1975-01-16

 

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―古典のメッセージから学べ!―
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あなたは昔の時代の書物を古典で時代遅れのものとして、
意図的に読まないようにはしていないだろうか。
その態度は非常に損をしているように、ぼくには思われる。
 
 
どのような書物もむろん、時代的制約は免れない。
つまり、当時の社会的状況や思想の背景などを完全に超え出た著作は一つもない。
それだからといって、当代の能力ある人が書き記した書物を捨てるのはもったいない。
 
 
なぜなら、その書物を書いた人が生きた時代における最先端に思想がそこに詰まっているからだ。
雑多で今の時代に役に立たない書物もたしかにある。
だが、紙が高級で今ほど誰もが情報発信できない時代、きわめて価値ある情報が書物には込められていた。
 
 
特にその生きた時代の背景などが現代と似ている場合は、一読の価値がある。
今回紹介することばは、江戸時代末期、ペリーの黒船がやってきたときに数多くの門弟を有した佐藤一斎のことばだ。
江戸時代末期も現代も、鎖国的平和にある日本の新たな幕開けの時代であり、まさしく様々な面での革命が起こりつつある時代である。
 
 
この似通った時代に佐藤一斎が古典をどう評価したのかを見てみよう。
 
 

[現代語抄訳]言志四録
佐藤 一斎
PHP研究所
2005-05-26


佐藤一斎『言志四録』//
宋や明の時代の語録を読むと、
私には納得のいくところと、いかないところがある。
また信じることができるところと、できないところがある。
疑ってよいところと、いけないところがある。
だが、繰り返しこれらを読んでいると、これらの賢人と一堂に会して、
親しく討論し合っているような感じがする。
これは古人を友とすることで、まことに有益なことである。
//岬龍一郎訳
 
 
佐藤一斎は儒学者であるから、宋代や明代の語録といっても、朱子や王陽明のものを特に多く読んだことだろう。
今から500年前の本を読んで、あなたは教訓を得ることができるだろうか。
もちろん、各時代の制約からすべてを真に受けてそういう語録を読むことなどできない。
 
 
だが、時代的制約を乗り越えたところにある人間や自然への洞察、そういったものは
生きた時代が変わっても、そう変わらないものだ。
そして聖人、偉人たちの洞察に価値があると判断するのは、語録や書物を読んでいる本人自身なのだ。
 
 
そして、そういった洞察に対する判断力が磨かれてきて、
古人と対話できるように感じるくらいになれば、古人と友になるといったことで有益なのだ。
 
 
これがメッセージです。
あなたも一度古典を手に取ってみてはどうでしょうか。
必ずそこには得るものがあるはずです。

草の根平和推進者 平高橋聡

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―誠実とは何か―

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ニーチェ『ツァラトゥストラ』

//

奴僕的幸福から自由であり、神々と崇拝から解放され、

恐れを知らず恐ろしく、偉大で孤独であること、

それが誠実な者の意志である。

 

砂漠には、遠い時代から誠実な者たち、

自由な精神の所有者が砂漠の主として住んでいた。

それに反して都会に住むのは、

良く飼育された、名声高い賢者ら――荷車を引く動物たちである。

// 世界の名著版 手塚富雄訳

 

 

あなたは誠実とは何かを考えたことがありますか。

この「誠実」ということについて、

ニーチェのメッセージをあなたにお伝えします。

 

 

上の権威、上の人からの命令に従って、

ただそれだけをこなすだけで幸福を感じ、

生きているだけのあわれな人たちよ。

 

 

あなたは仕事においても、日常生活においても、

真に神々と崇拝から解放されないと、誠実なものでは決してない。

ここでいう神々と崇拝とは、宗教的な意味だけではない。

 

 

どういうことか。つまり、資本主義への無条件な崇拝を強いられ、

金や物、会社という神々に仕えるのをやめよ。

ニーチェはそういうのだ。

 

 

権力に盲従しているうちは、自分の真の責任を負うことなどできはしない。

せいぜい、職責を果たす程度の、きわめて小さい人間になってしまう。

そうではなく、自分の人生全体の責任を考えよ。そうでなければ、君はいかなる意味でも誠実ではない。

 

 

恐れず、その行動が周りから恐れらるくらいの意気込みを見せよ。

偉大で孤独であること。まずはそこから出発せよ。

そうすることで初めて誠実な者となれるのだ。

 

 

何もない場所にこそ、誠実な者たち、

つまり自分の責任で自分の人生を切り開く開拓者が砂漠の主だった。

都会に住むのは、せいぜい民衆という荷車を引く賢者でしかない。

 

 

ニーチェがいいたいのはこうだ。

大きな権力があったとしても、自分の責任ですべてを果たせ。

自分の責任とは、職責など超え出たもっと大いなるもの。自分の人生に関する責任だ。

 

 

周りを気にするだけの知者として、賢者として行動するだけにとどまるな。

本当の意味での責任を彼らははたしていないのだから。

いかなる意味でも、よくできた賢者は誠実ではないのだから。

 

 

嫌われる勇気を持ち、時にはいうべきことを言わないといけません。

だからこそ、自分の真の責任を常に探求しつつ、行動してまいりましょう。

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)
フリードリヒ・W. ニーチェ
河出書房新社
2015-08-05

 

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