哲学エヴァンジェリスト高橋聡の読書へのいざない

このブログでは、私が読んだ本のどういう点があなたに役立つかを明らかにします。 コメントは、気軽にいただければ幸いです。あなたのコメントは、私の糧になります。私のコメントはあなたの糧になります。 哲学エヴァンジェリスト 高橋聡

2016年07月

こんばんは!

草の根平和推進者 平高橋聡です。

これまで1か月間、ほぼ毎日更新してきました。

しかし、少し忙しくなりつつあるので、更新頻度を落とします。

書くときは書きますので、今後ともよろしくお願いいたします。 

こんばんは!

 

草の根平和推進者 平高橋聡です。

 

今日はあなたにギリシャの哲学者プラトンのメッセージをお伝えします。

 
 

国家〈上〉 (岩波文庫)
プラトン
岩波書店
1979-04-16


プラトン『国家

//

知られるものどもには、真実を授け、

知るものには知るはたらきをもたらすこのものこそ、

善のイデアであると考えてくれたまえ。

これは知と真実の原因である。

また知と真実については、

ちょうど先の場合に光と視覚を太陽に似たものと見なすのが正しく、

太陽そのものと思うのは正しくなかったように、

そのようにまたこの場合もこれら両者は善に似たものと見なすのは正しいが、

これらのどちらをも善そのものと思うのは正しくなく、

人は善のありようをこれよりもっといっそう尊いものとしなければならないのだ。

//

 

では、さっそくメッセージを取り出しましょう。

 

あなたはとはなにか考えたことがありますか?

 

実は、とは知と真実の原因だとプラトンは言います。

 

どういうことでしょうか。

 

悪に基づいた知識などたくさんあると感じることがあるのではないですか。

 

でも、それはここでいう知とはまた違うものです。

 

悪が原因の知識とは、明るみに出した際、決して肯定することができない

 

真実とは言えないものです。

 

対して、善に基づく知は、少なくともその時代では、

 

みんなの前に出して、明らかにした場合、

 

それは正しい、真実だといわれる知なのです。

 

だから、犯罪に走らせる知識などは、

決して真実と認められないため

 

善に基づいた知識とは違うものです。

 

もちろん時代的制約はどの時代でもあります。

 

プラトンの時代は奴隷制正しいとされていましたが、

 

の時代にそれを正しいという人はいないでしょう。

 

つまり、ここから善とは何か、正義とは何かという議論が起こってきます。

 

それでもあなたは、本当の意味で善だといえる

 

行動を常にとるように心がけていますか。

 

そう、今は正しいとされていなくても、

 

いずれ正しいものとなると確信する知識も、

 

やはり善から来ているということができます。

 

あなたもそれに気を付けて行動しましょう。

 

歴史的にみて、現在別におかしくないことでも、

 

あなたがした行動は、将来、正しくないといわれることもあるからです。

 

歴史的に悪名を残すとはそういうことです。

 

気を付けてまいりましょう。

 

 

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)
プラトン
岩波書店
1979-06-18


 

これがプラトンからあなたへのメッセージです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

どうも、草の根平和推進者 平高橋聡です。よろしくお願いいたします。
表題にあるとおり、今日は神道と仏教について考えます。

神道と仏教とは、日本的という意味では元来分けることができない存在でした。
廃仏毀釈以前は少なくともそうでした。
廃仏毀釈とは、古神道(といわれたもの)を取り戻すために、神道、神社などに含まれていた仏教的なものを取り除こうとした、明治初期の運動のことです。
今回は廃仏毀釈に深く触れるわけではありません。
ここで分離された神道と仏教の印象の違いをここでは考察します。

まず、神道から受ける印象、イメージというものについて。
神社はまず山岳崇拝、信仰などから起こったといわれています。
それと同時かそのすぐあとに、自然物、人間が見るもの、おそれるものや人間の現象の一面などが神々として祀られました。
これらの神々を見て思うことは、神々間の争いは多少あれども、基本的には平和で、現世肯定、自然肯定の宗教でしょう。
そこにあるのは、少年時代の朗らかさ、自然の美しさへのあこがれ、素朴な恋愛感覚などです。
万葉時代、平安時代の和歌・詩に相通ずる、「もののあはれ」という感情こそまさに神道にはぴったりでしょう。
明暗でいえば、明を示すのが神道です。

一方、日本仏教は一概にいうのは難しいです。ですが、宗派を超えたイメージを取り出しましょう。
仏教は葬式やその後の先祖の供養など、死にかかわる宗教というイメージがまず強いでしょう。
そして、現世での利益だけを求めるのではなく、仏になったり、仏に頼ったりと超越的存在をみている。そんな現世否定的な教えを持っているイメージを受ける人が多いでしょう。
そして、インドで生まれ、中国大陸を通して日本に伝わった外来の文化というイメージもあるでしょう。
仏教が死について考えるのは、原始仏教以来の教え、つまり輪廻からの解脱や涅槃という境地とかかわりがあります。
明暗でいえば、死や墓など、日本においては暗を示すのが仏教です。

こうしてみると、現世肯定的で、日本人の万葉時代以来の感情を示したものである明の神道はいいものと考えがちです。
そして、仏教は元来外来の文化だし、死や供養など暗い部分ばかり見ている気がするので、良くないものと考える人も実際にいます。

しかしこの見方は正しいでしょうか。もちろん一面では説得力があるように見えます。
しかし、人間は生まれ、そこから生涯を歩み、やがて死に至ります。
輪廻が正しいか正しくないかは置いておいても、その事実だけは絶対です。
そのとき、現世を賛美し、楽しむ考えも大事です。
でも、苦しいことや、死に関して真剣に考えることが神道の教えに深くあるでしょうか。
残念ながら、神道的な考えには死の深みはほとんどありません。

ぼくら人間は、いつでも死の危険をはらんでいます。
そのため、死や不安を直面し、その際に、死と不安について徹底的に考える。
これは人間の常道です。
そして、この人間の暗部ともいうべき死・不安についての徹底した思索が
仏教そのものなのです。
もちろん、仏教を学べばすぐに悩みが取り去られるわけではありません。
キリスト教にしろ、イスラームにしろ、それは同じです。
でも、そういうきっかけを持ち、死という問題に対して真剣に考え、行動することができなければ、
ぼくの所感ですが、きわめて薄い人生しか送れないと思います。

そう、明暗と仮に世界を二つに分けたとき、明るさは闇がなければ引き立ちません。光には暗さが必要です。
つまり、人生の歩みの明るさを照らそうとすれば、暗い部分がないと明るい部分が引き立たないのです。
仮に人間がある程度大人になって、そこから老いないで、何をされてもまた死なない存在だったらどうですか。
そういう存在だったとしたら、死については考えなくてもいいかもしれません。
でも、生涯が終わらないから、時間とともに宇宙の消滅を受け入れる存在でしかない。
短期間に死んでしまう本当の人間よりも、長く生きれる点では優れているかもしれませんが、
私はそういう存在になりたいかというと、そうは思いません。
老いないで死なない存在とは、神道の神に他なりません。
仏というのは、心の平安というべき涅槃に入りて死ぬからこそ価値があるのです。
終わりがあることと、終わりがないこと、どちらが素晴らしいかというと、
ぼくは終わりがあることだと断言します。

だからこそ、ぼくは神道的な考えのすべてを否定するわけではありませんが、
どうも享楽的すぎるところが多く、あまり共感できません。
もののあわれという日本独自だといわれる感情も、美しい部分はありますが、か弱いものです。
鈴木大拙は「大地に根付いた」宗教として日本仏教、特に日本浄土教と日本の禅宗を挙げました。

ぜひ次の書の一読をお勧めします。日本の思想の根源がここにあります。

鈴木大拙『日本的霊性』

日本的霊性 (岩波文庫)
鈴木 大拙
岩波書店
1972-10-16

 

こんばんは!

 

草の根平和推進者 平高橋聡です。

 

今日は、哲学者イマヌエル・カントのメッセージを

あなたにお届けします。

 

純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
イマヌエル カント
光文社
2010-01-13


 

カント『純粋理性批判』R01

//

人間の理性のある種の認識には、

特別な宿命のようなものがある。

理性は拒むことができない問いに

悩まされ続けているのである。

この問いは、理性の本性そのものから課された問いでありながら、

理性はそれに答えることができない。

それが人間の理性のすべての能力を超えた問いだからである

//  光文社古典新訳文庫版 中山訳より

 

あなたは感情を押し殺して理詰めに考えようとして

 

かえって苦しくなったり、悩んだりしたことはないですか?

 

つまり、感情を押し殺した理性的な考えばかり

 

物事に対処し続けると、悩みがむしろ増大する。

 

そんな経験はありませんか?

 

そう、これには理由があるのです。

 

理性物事を問い続ける能力ともいえるので、

 

一つの疑問が解決しても、また疑問が必ず生まれます

 

だからこそ、あなたはどこかで立ち止まらないといけません

 

理性のみで問い続けても、究極の答えはでません

 

感情と理性の間に立つ能力悟性(知性)考慮したものでないと、

 

解決できないのです。

 

感情と理性どちらも納得させるやり方で、

 

問いをいったんやめ現状を見直した際に、

 

あなたは必ず答えを見つけ、解決を見出すでしょう。

 

 

以上、カントからあなたにメッセージをお伝えしました。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


 

こんばんは!

 

草の根平和推進者 平高橋聡です。

 

今日はあなたに儒教の教典からメッセージをお伝えしましょう。


 

 

『春秋左氏伝』隠公十一年

//

礼は、国家を秩序づけ、
社稷を安定させ、
民・人を序列づけ、
後嗣に福利を残すものである。
相手の徳を見て処置を決め、
自分の力に応じて事を行い、
時の変化に応じた対策をとって、
子孫に累を残さない。
これは礼を知るものと申せよう。 

//   岩波文庫 小倉芳彦訳

 

では、さっそくメッセージを取り出しましょう。

 

 

礼儀が結局、国家を秩序づけるのです。

礼儀が社会の正しさというものを安定させ、

民と人の並び順を決めます。

そして、そのことが後々の子孫の得になることです。

あなたは相手が持つ徳に応じて、

その対処法を決めましょう。

自分の力や徳に応じて、

事業をなしましょう。

時は固定化されたものではないので、

つねに時の変化に応じた対策を考えましょう。

そうすることで、子孫に悪いことは残さないで済みます。

このことができれば、あなたは礼儀があるといえましょう。

礼儀とは結局、尊敬すべき人を尊敬し、

指導すべき人には指導をしっかり与える。

明らかに相手が礼儀を忘れた行動をしなければ、

目上の人にたてつくことはしない。

目下の人にも怒ったりどなったりしない。

ただ、それだけです。

これを読んでいただいている、

あなたには必ずできます。 

 

 



 

これが:『春秋左氏伝』からあなたへのメッセージです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


 

こんばんは!

 

草の根平和推進者 平高橋聡です。

 

今日は、デカルトのメッセージをお伝えします。

 

「われ思う、ゆえにわれあり」ということばを聞いたことのある人は

 

多いでしょうが、このことについて今日は少し考えましょう。

省察 (ちくま学芸文庫)
ルネ デカルト
筑摩書房
2006-03

 

 

デカルト『省察』第二省察

//

だれかしらあるきわめて有能できわめて狡猾な欺き手がいて、

私をいつも故意に欺いている。

彼が私を欺くのならば、

そのとき私があることにやはり疑いはないのである。

力の限り欺くがよい。

だからといって、私が何ものかであると

私が考えているあいだ私が何ものでもない、

ということを彼が生ぜしめることは決してできないだろう。

かくして、すべてのことを十分に十分すぎるほどに検討したのであるから、

結局次のように結論すべきなのである。

「私はある、私は存在する」というこの命題は、

私が言い表すたびごとに、

あるいは私が精神によって把握するたびごとに、

必然的に真だということである。

//

 

あなたは常に考えていますか?

 

常に何事かについて考えているなら、あなたは存在しています。

 

逆に、何事について考えていない時間、あなたは存在しないも同然です。

 

世間一般の人が考えていなければ、その人は存在しないも同然。

 

あなたも考えることで常に存在を示すことができます。

 

だから、考えることをやめないでください。

 

感情に流されすぎて、怒りや苦しみにとらわれすぎてはなりません。

 

そのとき、本当のあなたはそこには存在していません。

 

だからこそ、どんな苦しいときでも、

 

考えて周りに配慮して過ごしてまいりましょう。

 

 

 

これがあなたへのメッセージです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


 

こんばんは!

 

草の根平和推進者 平高橋聡です。

 

今日はあなたに儒教の教典からメッセージをお伝えしましょう。


 

 

:『春秋左氏伝』昭公十五年

//

王はきっと天寿を全うできまい。

「楽しみ事で人は生涯を終わる」と私は聞いているが、

いま王は憂いを楽しんでいる。

憂いで生涯を終わるとは、天寿を全うできぬということだ。

王は一年のうちに妻子二人をなくし、三年の喪が二つも重なっている。

その折も折、弔問客と宴を開き、

さらに楽器を要求したのは、

憂いを楽しむことはなはだしく、

それに礼を合していない。

礼は王者の重要な規範である。

一挙にして二つの礼に反したのは、

重要な規範がないということだ。

言葉は典籍にもとづき、典籍は規範を記すもの。

規範を忘れていくら言葉を並べ典拠を挙げても、

何の役にも立たぬ。

//   岩波文庫 小倉芳彦訳

 

では、さっそくメッセージを取り出しましょう。

 

 

あなたは天寿を全うする気がありますか?

 

そう思うなら、楽しみ事を大事にして、

 

憂いを少なくして人生を送らなければなりません。

 

礼や規範というものを守りつつ、楽しみ事を大事にする。

 

難しいようですが、実はそうではありません。

 

規範の多少の逸脱は仕方ありません。

 

ただ、その逸脱に対して反省の心がなく、

 

憂いを持ち続けたまま人生を送るなら、

 

天寿は全うできないでしょう。

 

憂いにはきっちりと対応したうえで、

 

楽しみ事を楽しみ、人生を終える計画を建てましょう。

 

 



 

これが:『春秋左氏伝』からあなたへのメッセージです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


 

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